今「婚活」という言葉が頻繁に使われるようになりました。婚活、つまり結婚活動です。せっかく女性に生まれたのだから綺麗なウエディングドレスを着た結婚式や幸せな結婚生活に憧れるものです。「アラサー」「アラフォー」という言葉も繁栄し、30代、40代でもまだ美しく輝けるという時代です。そんな婚活ですが、できれば恋愛結婚がしたいと願うものです。とあるアンケートによると出会いのキッカケは職場というケースが多いようです。また周囲に出会いが無ければやはり恋愛には繋がりにくいのだとか・・・。恋愛結婚を求めるにはまず出会いから!婚活婚活と騒がれている今だからこそ、積極的に出会いを求め、素敵な恋愛結婚をしたいものです。
恋愛結婚という私的なものが実は優生思想とつながっていた、という一発アイデアで読者を引っかけようとした偽善的な書。意外なものを結びつけて興味をひかせたい著者がおり、それに引っかかる凡庸な読者がいる。こんな駄本が評価されてしまうことに私は愕然としてしまう。
そもそも個人主義が全体主義とシームレスにつながるなど、私には当たり前に思える。私が知りたいのはそんなことではなくて、多くの評者がなぜ「優生学」というマジックワードを使いたがるのかなのだ。著者はそんなことには興味がないらしく、ひたすら「恋愛結婚」=「優生思想」=「国家は悪」の等式を成立させようとやっきになっているだけだ。
だが、著者が本当にダメなのは国家の実体が何なのか理解できていないことにある。著者は、「国家」=「政府」=「政治家」=「悪」だと思い込んでいるが、実際には、国家の本体は著者も含めた個人自身である。個人を抑圧するものは個人であってそれ以上でもそれ以下でもない。それがわからないかぎり的外れな評論しかできない。たぶん著者は、国家の本体が個人自身であることや、ファシズムと民主主義が同じものであることなど永久に理解しようとしないだろう。
はっきり言って、取りあえずいっぱい本は読んだんで、「優生学=悪」という流行りの図式を使って、「恋愛」を絡めて、お話を作ってみましたというだけの本だ。こんなにいい加減に、一面的な解釈で歴史資料を使って許されるのだろうか。優生学研究を真面目にしている人間(松原洋子、市野川容孝etc)、歴史を社会学はいかに思考できるか真剣に考えている人間に失礼だ。素人相手のぼろい商売をするなと言いたい。
恋愛、結婚、出産、健康で「いい子」の子育て。私達は普通それを、1セットで無前提に「幸せ」と考えていると思う。恋愛結婚したからにはもれなくついてくる「幸せ」として。筆者は、そんなささやかな個人の夢に国家や思想が介入し、結婚…家庭を「優良国民再生産装置」として利用した歴史を解き明かしてみせる。表題の「恋愛結婚」にカッコがついているのがミソ。決して恋愛指南書でも結婚の勧めでもありません。幸せは個人のものだ、という筆者の情熱が伝わりました。中身の重さにしては飄々とした文体も、息が抜けて良かった。
私的で内面的なもののように思われる「恋愛」が、近代日本においては個人を国家の意向に効率よく従わせるためのいわばメディアとして機能していた、という事態を解読するための本。優秀な社会学者ならではの手際よい概念整理がすばらしい。ジェンダー・セクシュアリィ論や優生学関連の研究成果がたくさん参照されており、専門的な議論の現状を一般向けに広報するという、新書らしい利点も充実している。また本書で主に扱われる戦前の学者や評論家の著作に対する著者の読解が非常にさえており、文章批評のお手本にもなると思った。<p>ただ読んでいてどうしても気になったのは、ときに現れる「僕はこう思う」式の主張のやり方である。好みの問題なのだろうが、この語りのソフトさを押し出そうとするスタイルが本書の趣旨にそぐわないように感じられた。著者は優生思想を批判する文脈で、上から高圧的に理念を押しつける主張より、一般大衆の心情をやさしく引き寄せながらイデオロギーを叩き込む言葉遣いの方がよほど危険であると、適確に論じていた。なのだから、自分も「ユーモア」あふれる論述などに溺れないで、論理のクリアな硬い叙述に徹するべきではなかったのか。まあ、そうすると全体に重たくなって読みやすさが減じる、という難点があるけれども。
いやー。近年これほど頭をガツンと打たれた本はなかった。常日頃より、「~だから~しなくてはいけない、と考えるのはおかしい」「~は~ということになっている、というのはなぜ?」・・・と考えているつもりであった。しかし、結局、自分はまだまだ既成概念や偏見から自由ではなかったのである。<p>本著では、「結婚=幸福」「結婚=恋愛の結果」という、誰もが当然視している前提を疑う。そして、結婚=恋愛=優生学的選択=国家繁栄・種族のための生殖という驚くべき図式にまで遡る。(ちょっと単純化しすぎですが)著者は敬意を持って、注意深く言葉を選んで表現してはいるが、フェミニズムの先達平塚らいてうなどですら、国家のための生殖という考え方から自由ではなかったという点もショックであった。我々は、科学や技術を進歩させてきたと同様の努力と呻吟を経て、価値観を進化させてきたのだということを感じる。やはり我々は進歩している。より人間らしく生きられるようになってきているのである。<p>我々が「当たり前のこと」と思っていることは、実は当たり前でも何でもない」。我々には、精神と行動と思考の自由が与えられている。思考停止して、精神の牢獄に自ら囚われ人になってはならない。私の精神は十分に自由であろうかか?その自由を十分に行使しているのだろうか?そのように改めて自分自身に問い直すためにも、何度も読み直したいと思う。